くろいとびら [感想文]
はじめてのやのあきこ
『ひとつだけ』がすごいことになっている。もうオリジナルとはまったくの別物。忌野清志郎が参加する時点でこうなることは予想できたが、まさかここまでとは。
いやべつに、キーを清志郎に合わせて変えているくらいで、それほど大幅なアレンジがされてるわけではないのだが(ちょっと詞も変更されてる)。それでもこの曲が清志郎のモノになってしまっている。
ここでも『少年時代』唄ってるし。おいしいところ全部もってっちゃってるね。
仏像 [感想文]
むぅぅ・・・、¥6720・・・。
でもしょうがない。
本屋で平積みされていて、本がわたしを呼んでいた。
あぁ、この本はおれの為にこの店に入荷されたのだなと。
えー、買いましたとも。
いやべつに血迷っちゃいません。
内容は奈良・京都を中心に日本全国の名仏をほぼ網羅。それぞれの仏の魅力を絶妙に切り取った小川光三撮影の写真も見事。惜しむらくは、わたしの最も愛する渡岸寺の十一面観音が、掲載されているものの、最大の魅力であるところの“腰のひねり”が目立たないアングルであったり、唐招提寺の鑑真像などの高僧像が“仏像”としてカウントされないのか、掲載されていなかったりすること。しかし、それでも仏像データベースとして、写真集として、価格にじゅうぶん見合うものであると判断した。
はい、それで買っちまいました。
贋作 罪と罰 [感想文]
職場の同僚に劇団員がいて、「公演を観にきて欲しい」と、再三にわたり誘われていたのだが、その度、わたしははねつけていた。
映画館と同様、とにかく劇場が苦手なのだ。
そして演劇といえばやはり『ガラスの仮面』であり、わたしにとっての演劇とはそれこそがすべてなのである。作品上で“最高の舞台、最高の演技”を観てしまっている以上、現実で他の舞台など観ても、おそらくがっかりするだけで、そんなことに金を払いたくない。
しかし数ヶ月前、同僚の彼が次に演る公演内容を自信なさげに告白してきたとき、笑っちゃうくらいびっくりした。
「次は野田秀樹さんの舞台をやることになりまして・・・」
――うそーん! まじでか?――
最初は彼が野田の舞台に客演するのかと思ったが、そうではなく、彼の劇団が野田作品を演じるということだそうで、まぁそれでも驚きに変わりなく、作品名をきいたら、
「『贋作 罪と罰』というやつでして・・・」
――うほ! なんだよ、おれでも知ってるよ、それ。しかし、野田でしょ? だいじょうぶなの? 素人だからくわしいことはわからんが――
「やばいです・・・。いつもは強力に誘ってますが、今回ばかりはちょっと・・・」
――えへ・・・、あぁそう・・・、むふ・・・――
ということで、えー、いってきましたとも、いっちゃいましたとも、西荻窪まで。
“遊空間がざびぃ”なる小劇場というか、イベントスペースというか。
こういう場所はもちろん初めて。演者との距離の近さが照れくさく、好きな人はそれがいいのだろうが、どうにも慣れそうにない。
そして始まった。
花火を表現しているとおぼしきパフォーマンスの導入部に、「おいおい、初心者に前衛はきついぜ・・・」と、先行きに不安を抱えたが、その後はじつに正統派のまっとうな芝居へと移行。小劇場に対する違和感もいつのまにか消え、すっかり芝居に没入することができた。
いや、すごくよかったですよ、ほんとに。
膨大な量のテキストが速射砲のように発せられる台詞まわしであるにもかかわらず、それがすんなり耳に届き、頭に入ってきた。演劇論のなにも知らないズブの素人のわたしに、正当な評価などできるものではないが、これはやっぱり、役者のみなさんに実力があるということかなと。
ただ、全体を通して台詞が乾いた語感であるのに対して、終盤、突然ポエティックな甘い語感になったことに、多少の違和感をおぼえた。これはもともと野田が意識して脚本にしたものなのか、それとも本家(?)の『贋作 罪と罰』においての演技、演出では感じられないものなのか。
本家(?)を観たことがないため比較できないし、だいたい演劇とは比較論で語れることではないと思うので、まぁいい。とにかく、わたしは芝居に没入できたわけで、こっそり泣いたりしていた。感動できたのだ。
悪いのは演技でなく、脚本なのだ。そういうことにしておこう。
ザンサイアン [感想文]
なんとも晴ればれとして。
雨が降っていても、その雨の美しさと、後に訪れるであろう澄みわたる青空に思いをはせ。
――あぁ、よかったな・・・――
すべてが良い方向に向かってる。まるくおさまってる。
「ムラサキの雲」ということばを聴くに及び、これまでの考えを改めた。
Coccoの“音楽活動休止期間”を“休止”と捉えるのは間違いなのではないか。今作で生まれかわり、“新生Cocco”となったわけではないようだ。
たしかに歌声や曲調からはCoccoの新境地を感じさせるが、それは前作『サングローズ』からの連続した変化のあらわれであり、Coccoは突然生まれかわったわけではない。「ムラサキの雲」が“休止”していた5年間の時の隔たりを埋め、つないでいるのだ。
『焼け野が原』に訪れた嵐に、今はやさしさをも湛えたきらめきを感じ、「もう歩けな」かった道を再び進みはじめ、5年の時をかけてついに“ハッピーエンド”にたどり着いた。
映画も公開されるそうで [感想文]
先日テレビでたまたまみかけた。
『ハチミツとクローバー』
まったくの初見で、話も途中から。人物の相関などなにもわからないのにもかかわらず、
泣けた。
後日。
奇しくも、めったに行くことのないマンガ喫茶へ1年ぶりで行くことになり、
――あぁ、これは読まなければいけないようにできてるんだな――
と。
で、刊行中の8巻をすべて読んだ。
なるほど、人気があるのもうなずける。
まわりに知り合いが多数いたためおし止めたが、ひとりで読んでいたら、間違いなく泣いていた。
わたしは女性に好かれた記憶がないため、ああいうモテ男どもの気持ちなどさっぱりわからず、まったく感情移入できない。
そこでひねくれにひねくれて、少女マンガを読むにあたってはごく当然の、女性視点で物語を読みすすめていくことになる。
『ハチクロ』読者の大多数がそうであると思うが、
まぁとにかく、山田なわけだ。
まったくつれぇよなぁ・・・。
真山、お前はダメだ。うまく説明できないが、とにかくダメだ。
作者さん。どうか山田をしあわせにしてやってください。そうでないと、読者達の思いがうかばれない。
カンコンキンシアター20 [感想文]
なんだか合わせるように酷暑がやってきて、因縁めいたものを感じるが。
いよいよ『カンコンキンシアター20 クドイ! ~マリちゃんと遊ぼう。byルー大柴~』が開幕。初日を観にいった。
たしか初めて観にいったのは20歳のとき。いったい今年で何回目なのか・・・、数える気にもならない。
関根勤が死ぬまで変わらないとすら思えるほど、毎年繰り返されていた内容構成が、新人が多く入ってきたこともあるのか、今年は大幅に変更された。
しかし、もちろん、くだらなさには変わりない。とくにラッキー池田の下ネタは去年を越えるひどさだった。もうこれ以上はひどくならないだろうと思わせながら、それでも毎年、前年を越えるひどさを見せつけるラッキー池田は、やはり天才だ。
さて、サブタイトルにあるとおり、今年の話題は関根父娘の共演であり、娘を前面に押し出してくるのかと思いきや、そこはさすがの関根勤、わきまえている。関根麻里は完全な新人扱いで、出番は少なめ。そして、その父娘関係を知らないひとが観たらどん引きしそうなくらいひどいことを、他の女優陣と同じく演じさせていた(いや、演じるというのは違うか・・・)。
ふだんは娘にバカにされっぱなしの父・勤だそうだが、やっぱり芸能界の上下関係ってなると、きびしいのね。
太陽 [感想文]
イッセー尾形「昭和天皇」日本公開決定…ロシア映画「太陽」:芸能:スポーツ報知
観てきました『太陽』、はい。
賛否両論あるだろう。ただ、それが作品のデキの良し悪しを論じてのことではなく、日本での公開や、この映画が制作されたこと自体を問題視しての賛否だとしたら、そちらのほうが問題だ。
「戦争責任の所在」というのは、この映画の主題ではない。
「天皇制の是非」を直接問うような表現も、もちろんされてない。
『太陽』は、あるひとりの実在した“人間”を題材に、彼の心情を、史実と想像とを駆使して再現しようとした、世界にあまたある(ノンフィクションに限りなく近い)フィクション映画のひとつにすぎない。
実像は知る由もないが、それでもわたしの知る限りにおいては、歩き方、首の角度、くちびるの動き等、ものまねのレベルを超えて“昭和天皇ヒロヒト”そのものになりきっていたとも見えるイッセー尾形の演技。その役への入り込み方、つくり込み方を見る限り、これまでのイッセー尾形のひとり舞台のそれと変わりないように見えるし(実際、この『太陽』という作品自体、イッセー尾形のひとり舞台のようなものだった)、彼にとっても、“昭和天皇ヒロヒト”は数多く作り上げてきたキャラクターのひとつでしかないのではないか。
なにも特別なことはないのだ。まずは作品そのものを映画論で語られるべきであり、イッセー尾形の演技に素直に驚嘆する。戦争論、社会論を持ち出すのは二の次でいい。そういう映画だ。
といって、映画論を語る術はわたしにはないのだが。
ぬえ [感想文]
奇しくも東京では雨が降っている。
いいねぇ。“雫”にふさわしいねぇ。
と、思っていたら、雫どころではなく、どしゃ降りになった。
ま、どうでもいいが。
で、無事発売。無事購入。
手にとって第一声、
「あ、厚い、アツイぜ!」
といいたいところだったが、それほどではない。
いや、他の作家のものに比べればじゅうぶんぶ厚いのだが、どうやらわたしはマヒしてしまっていて、鉄鼠級の厚さでないと物足りなくなってしまっている。ま、おもしろけりゃなんだっていいんだけど。
で、手にとって、まずは京極堂シリーズに慣れたひとなら必ずするであろう行為に及ぶ。
本編の最後のページをみないように、裏表紙から開いていく。
うん、やっぱりあった。
次回作のタイトルは、
『鵺の碑』
ヌエか。比較的メジャーどころがきたね。
『陰摩羅鬼の瑕』が、一作目『姑獲鳥の夏』と少し関連づけられた話になっていたのを考えると、『邪魅の雫』は二作目『魍魎の匣』となにか関係してくるのではないかと勝手に推測していた。『今昔画図続百鬼・明』では、邪魅は魍魎の隣りに掲載されており、コメントも、
邪魅ハ
魑魅乃
類なり
ときたもんだから、こりゃ勘ぐりたくなる。
とうぜん、『邪魅の雫』は買ったばかりで読んでないのだから、まだなんともいえないが、推測があたっていたのだとしたら、やっぱり『鵺の碑』は、三作目『狂骨の夢』とかかわってくるのではないのか?
さっそく『画図百鬼夜行』の“鵺”と“狂骨”をあたってみたが、それだけではとくにわかりやすい関連は見出せず。
うーん、わたしの知識が足りないだけか、そもそも関係がないのか。
ま、とりあえず先に『邪魅の雫』を読めってはなしだ。
はい。
ということで、しばらく読書します。ほっといてください。
113/817 [感想文]
振り返ってみると、ここ最近、このブログでは、フランス旅行記と京極関連しか扱ってないね。ま、どうでもいいが。
で、やっぱり邪魅。本編全817頁中、まだ113頁しか読んでないのだが、今のところ不思議なことが起こってない。事件はいろいろ起こっているが、犯人がわからないというだけで、妖怪をもちだしたくなるようなことは、まだ何ひとつない。
こいつは“各地で起こった、様々な事件がひとつに収斂されて・・・”という展開になりそうで、話の構図は予想通り『魍魎の匣』、あるいは『絡新婦の理』に近くなるのだろうか。しかし、やたらと“海”が出てくるあたり、雰囲気は『狂骨の夢』に近くもある。
ま、はやく先を読めってはなしだね。
というわけで、読書します。ほっといてください。
書評じゃなくて感想文 [感想文]
だけで、終わらせたいところなのだが。
最近ずっとこれを取り扱いつづけてきて、これで終わらせるわけにはいかないのだが、ただ、ことこの本に関しては、“書評”というやつが、禁じ手とまではいかないが、まぁ非常にしずらいことになっているわけだ。読めばわかるが。
もともと、このブログで書籍を扱う場合、“書評”などと呼べるようなえらそーな書き方はせず、紹介文、感想文程度のものを書いてきたつもりだ。
よって以下、また同じように感想文らしきものを書きます。ほんとにどうってことない内容ではあるが、ごくごく些細なことでも、ネタばれにつながってしまったり、作品のおもしろさを損なってしまうおそれもあるので、嫌なひとはどうぞ読み飛ばしてください。