狂骨の夢 [感想文]
さて、邪魅を読み終わって一息・・・、
とはいかない。
まだだ。まだ終わらんよ。
きた、愛蔵版。『魍魎の匣』ほどではないが、それでも、
厚い! デカイ!! 重い!!!
いや実は『狂骨の夢』は、シリーズ中、そんなに好きな作品でもなかったのだが、これで読むとぜんぜん違う。
買った直後、喫茶店に入って早速開いたのだが、冒頭の“夢”のシーンで一気に引きこまれた。いや、引きずりこまれたというべきか。その本の重みで“海”に引きずりこまれたのだ。
いやもうたまらんね。止まらんね。
ちなみに、恒例、応募者全員サービスの豆本だが、今回は、
『百鬼夜行 第十五夜』
なんと、
書き下ろし
ですよ!!
しかし発送は2007年6月って・・・、
待てんね。
成長 [感想文]
どうしよう。ものすごくおもしろかった、ほんと。これを「あまり好きじゃない、おもしろくない」と思っていたこの数年はいったいなんだったのだろう。じつにもったいない気がする。
初めて読んだときは“京極堂とその一味”の出番が少ないことに物足りなさをおぼえたのだが、今回は、それはそういうものだとわかって読める分、とくにイライラすることなく余裕を持ってページをめくることができた。
また、わたしも無駄に時間を浪費しながら生きているわけでもなく、ほんの少しずつではあるが知識が増えていっているようで、武御名方がどうしたとか、南朝の末裔がこうしたとかいう話に興奮できる素養がいつのまにか培われていた、ということもいえる。
初読当時を振り返ってみると、このへんに興味がなかったというか、湧かなかったというか、「だからなんなの?」と、ほとんど読み飛ばすようにしていたように思う。
あぁ、おれもケツがアオかったなと。いや、まだアオいのだろう。まだまだ勉強が足りない。いままで「つまらない」と、容赦なくきって捨ててきたものの中にも、知識如何によってはとうぜん“おもしろい”ものもあったはずだ。まったくもって、もったいない。
白くまピース [感想文]
あー、いつのまにやらDVD化されてたのね。
わたしは生まれてこのかたペットを飼ったことはないし、今後も飼おうとは思わない。小動物をみて発狂するようなこともまぁないのだが、そんなわたしでも、2年ほど前だったか、この子熊の映像をはじめてみたときの興奮は忘れられない。
んまぁ、なんとかわいい。ぬいぐるみがもぞもぞ動き、ひょこひょこ歩いてる。常軌を逸したかわいさだ。
映像が一般に公開されたとき、テレビ各局のニュースでもとり上げられたのだが、どこかのアナウンサーが、
「史上最強の映像です」
と、これを紹介した。
まったくわけのわからないコメントではあるが、報道番組でアナウンサーにそんなめちゃくちゃなことを言わしめるほどの、強烈なインパクトを与える映像であった。
んまぁ、とにかくかわいいのである、子熊ちゃんが。
ただ。
ジャケットにもなっているように、このDVDの最大のウリは“かわいい”なのだろうが、やはり肝心なのは、サブタイトルの『人工哺育の全記録』の方。
“命”にかかわっている以上、それは“かわいい”だけではすまない、シリアスでシビアなもの(以前にも同じようなことを何度か書いている気がするが)。
はっきりいってこの子熊の映像には、“かわいい”だけで商品として成立してしまうほどの魅力があるのだが、本作がえらいのは“全記録”だけあり、ちゃんとすべてを追っていることである。
ピースがでかくなって、かわいくなくなった姿。野性を取り戻して凶暴になる姿。
白熊の人工哺育がどれだけタイヘンなことなのか。“日本初”ということは、即ち、それまでに数多くの失敗、“死”があるということ。
まぁとっかかりは“かわいい”でもいいのだ。ほんとに容赦なくかわいいから。
ただ、それで同時に様々なことを知り、考えを巡らせることができる。
子供向けとしてはもちろん、大人にとっての知育ビデオとしても成立している。
二十一世紀に生きる君たちへ [感想文]
秋の教育スペシャル! たけしの日本教育白書 楽しくマジメに生... | テレビ王国
↑で、司馬遼太郎大先生の名著、『二十一世紀に生きる君たちへ』がとり上げられていた。
これは小学6年生の国語教科書にむけて書かれた文章で、番組では“知る人ぞ知る”といった扱いだったのだが、ちゃんと一般向けに書籍化されて、誰にでも読めるようになっております。というより、すべてのひとに読んでほしい。いや、読め。
ちなみにわたしは、司馬遼太郎記念館限定販売の直筆原稿掲載版も持ってますぜ。
これは子供たちに向けたメッセージという形をかりた、司馬先生の遺言である。
“書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。”
いやそれでもやっぱり、司馬先生の著作や対談を読む限りは、日本の未来を絶望視していたのだろうと思う。
無理やりにでも“未来はかがやいている”と、子供達に、世界中の人々に、そして自分自身に、言い張って、言い切って、言い聞かせて、そう思い込んでやっていくしかないくらい、この日本はもう立ち行かなくなっている。
ただ、そう“言い聞かせる”ことこそが作家という職業に与えられた使命でもある。
そして司馬先生は書き上げた。
国語教科書に載るにふさわしい平易で簡潔な文章を構成することばのひとつひとつに、きっと子供達は未来のかがやきを見るだろう。
大人達には、司馬先生の絶望と、その中からなんとかかがやきを見出して子供達にみせてあげよう、なんとか子供達に希望を植え付けようという、悲壮的なまでの思いが伝わるだろう。
だからこれは日本に向けた司馬遼太郎の遺言なのだ。
司馬先生の告別式で大号泣した宮崎駿が、後に語った。
「こんな二十一世紀の日本の姿を司馬さんに見られなくてよかった」
もう手遅れなのかもしれない。
いや、まだ間にあう。
どうにかなる。
いや、どうにかしなければならない。
司馬先生は丁寧に言い聞かせてくれる。
実相寺昭雄 [感想文]
「ウルトラマン」演出、実相寺昭雄さん死去
あぁ、そう・・・。
またウルトラシリーズで演出してくれないかと、期待してたのだが。
最近奇しくも、ソネットブログではこんなスキンが使用できるようになり、わたしもこれを初めて使うのが、こういう機会になってしまったというのがなんとも寂しいはなしだが。
ウルトラシリーズで久々の実相寺演出が実現した、←に収録の『花』は、かなりの異色作であり、またティガ内だけでなく、シリーズの中でも最高傑作と呼べる出来。
ティガ放送時、わたしはリアルタイムで毎週欠かさず観ていたというわけではないのだが、たまたまテレビをつけていたら『花』の回の放送で、それでたまたま観たら、
「なんだ、これは?!」
で、後にそれが実相寺作品と知り、なるほど、やっぱり、さすがだ、と。
。
そうそう、それで『姑獲鳥の夏』の監督はこの人なわけですよ。
くわしくは知らないが、もしかしてこれが遺作だったりするのかも。
あぁ、いよいよ観るときがきたか。
ちなみに『画図百鬼夜行』和綴じ本付のこれ、まだ在庫があるみたいですぜ(’06 11/30現在)。
べ、べつにハマってるわけじゃないんだからね [感想文]
いよいよというか、とうとうというか、まぁ手を出してしまったのだ。
先に感想をいうが、
アニメの方が洗練されている感が。
当然といえば当然だが、アニメとはセリフが異なっている。同じセリフを言っていても、コミック版には言葉が付け加えられている場面も多く、それが肝心な場面の場合、説明くさくて、なんだか野暮ったくなってしまっている。
ただアニメ版にはないエピソードも描かれていて、余計だと思われるセリフと共に、それでアニメ版では不明だった点が補完されている。
新シリーズが制作されるのなら、このへんのエピソードが扱われるのだろう。『涼宮・・・』の場合、時系列の順序は関係ないし。
まったくうまい商売しやがる。
まぁそれにしても。
テレビ放送を観ていただけなのであれば、
「べ、べつに、テレビをつけたら、いつもたまたまやっていただけで、それでたまたま観ていただけなんだからね!」
などと言い訳もできるが――誰かに対する言い訳ではなく、“まだ自分はそっち側には行ってない”という自分への言い訳だが――、能動的に、それに対して金を出したという事実に、もう言い訳は許されない。
まぁ、まだ小説や、DVDや、ましてやキャラクターソングのCDを購入するまでには至ってないわけだが。
でも――、
べ、べつに、S・O・S団に入団して、メルマガ登録なんてしてないんだからね!
いぇい いぇい いぇい どこがいけないの [感想文]
毒を食らわば皿まで。
違うか。毒じゃないし。
いや、やっぱり毒みたいなもんか。
死なば諸共。
こりゃまったく違うか。
いやでも、“まきますか”と問われて、気分的にはまいてしまっているわけで。契約しちゃったようなもんなんだね、どうも。
まぁとにかく、この道に一歩踏み出してしまったからには後戻りはできない。いきつくとこまでいってやろう、ということで、男三十路にして、次なるは薔薇の世界。いや、あっちの薔薇じゃなくてね。
薔薇と雛菊じゃなくて、薔薇乙女と雛苺なのー。買っちまったんですぅ。もちろん刊行中の全巻なのだわ。
いざ手にとってみたら――、
あぁ、やっぱりおもしろいでやんの。なるほど、これなら外務大臣もはまるってもんだ。
たまたまアニメの第1回目の放送を観たのだが、その時。
石垣島のリゾートホテルに宿泊し、夕暮れに紅く染まる海を無視してまで、わざわざテレビの中の“紅”を観てしまった、その時。
その時、すでにだいたいの事は察していたのだ。その道を進めば、めくるめく官能の世界が待っているだろうことは。
ただ、得るものがあるかわりに、失うものも大きいだろうことも予感し、一歩を踏み出すことを躊躇していたのだが、そんな躊躇いも、“憂鬱”を抱え込み、まるごと受け入れることで、じつにあっさりと振り払われてしまった。
あとはもう、流れるがまま、流されるがまま・・・。
あぁ、とりあえずDVDも観てみるかしら。
ぬらりひょんの褌 [感想文]
そうそう。ちょいと発売から時間が経ってしまったが。
みなさん、読みましたでしょうか。
週刊プレイボーイ。
石原さとみ、やっぱりかわいいねぇ。
じゃなくて。
『ぬらりひょんの褌』後編。
あのシリーズの方々は誰も出てこないのかと思ってたら、ついに出てきたね。しかもあの古本屋さんが。
そうだ。やっぱり不思議なことなど何もないのだ。
なんだかんだで、全編をとおして京極節炸裂でございました。
連載前は、勝手に“木場vs両津”というのを想像していたのだが。
そうだね。そりゃ現代のはなしじゃ、そうもいかないだろう。
そうか、警察関係者はみんな偉くなっているか。
でも偉くなっているのは青木や石井ってところか。木場が上層部にいるって、なんだか違うと思うし。
関口は・・・。
まぁそんなところだろう。ちょっと悲しいが。
ハレとケ [感想文]
えー、なんだかんだで結局読み始めましたとも、小説。
まだ刊行中の全巻を読み終わってないのだが、「おっ」と思う箇所があったので。
こちらでまんま民俗学的用法で、“ハレ”、“ケ”ということばが使われていた。
うん、深く考えるべくもなく、やっぱりカンタンなことだったんだよ、こんなの。
で、まだ途中ではあるが、ついでに感想も。
いやいや、おもしろいね、やっぱり。
アニメ版は、この原作をかなり忠実に映像化していたのだなと。
それであらためてコミック版に違和感をおぼえる次第である。
コミック版には他にないテイストをということなのか、読者により親近感を持たせようという配慮からなのか、小説、アニメでは妙に冷めている、老成している感のあるキョンが、普通の高校生でしかないのがなんだか物足りない。
もちろん、原作をそのままマンガにしたって意味が無いのはわかるし、マンガという媒体の性質上、膨大なテキスト量のキョンのモノローグをそのまま取り込むのにも無理があるということもまぁわかる。しかしその独特のモノローグこそがこの作品の特徴であり魅力なのだ(もちろんわたしにとってのだが)。それが殺がれ、物語の語り部であるところの一人称役の性格がかわってしまうというのはいかがなものか。
なんて、文句ばっかり書いてるが、コミック版も別物としてみれば、それはそれでちゃんとおもしろいのよ。最初にとりあげたときだってほめてるでしょ。
って、小説版の感想になってないね。
全部読んでないので、やっぱりまだなんともいえないのだが、ひとついえるのは、この原作者、かなり長門が好きなんだなと。それはひしひしと伝わってきます。
ラ・フォル・ジュルネ [感想文]
で。
えー、いってきましたとも。
まぁとにかくひとの多いこと。
気温も25℃を越えていたみたいで、まさしく“熱狂”。
そんななか13:45~の、
アリ・ヴァン・ベーク指揮、オーヴェルニュ室内管弦楽団演奏による、
ヤナーチェク 『弦楽のための牧歌』
グリーグ 『2つの悲しい旋律 作品34』
ボロディン 『弦楽のための夜想曲』
で、静か~に幕を開けた、わたしの『熱狂の日』。
『ボレロ』にむけて(その曲調と同様)気分をクレシェンドさせていこうかと、あえてこのプログラムを最初に選んでみた。
終演後、←の某ドラマーと合流。
屋台のカレーを食ったり、下戸のくせに無理して真っ昼間からお日様の下でワインを飲んだり。ま、こういうのは気分の問題だから。
後、無料エリアで台湾の楽団による演奏を聴いてから東京国際フォーラムを出て、丸の内界隈のその他のビルで催されている関連イベントをみてまわり、
妖精さん達と出会った。あぁ、春だねぇ。
17時過ぎに某ドラマーとわかれてから、続いて某旧友と合流。
会場内をぷらぷらしてから、また無料エリアで、今度はシャンパンを飲みながらチャイコフスキーの交響曲5番の最終楽章を聴く。
さて、続いての有料公演に選んだのは、19:15~、
ドミトリー・リス指揮、ウラル・フィルハーモニー管弦楽団演奏、
ラフマニノフ 『パガニーニの主題による狂詩曲 作品43』(ピアノ ボリス・ベレゾフスキー)
ムソルグスキー 『禿山の一夜』
ボロディン 『中央アジアの草原にて』
今年の『熱狂の日』のテーマは“民族のハーモニー”。
それでウラルの楽団が、『中央アジアの草原にて』なんてタイトルの曲を演奏するのだ。
・・・すいません、この曲聴いたことなくて、どんなもんだか知らなかったのだが、それでも期待せずにはいられないというものだろう。
そして『禿山の一夜』。
『のだめ』ブームをすこし冷淡な目でながめているわたしではあるが、
・・・すいません、この曲をはじめて知ったのは『タッチ』でした。
たっちゃんが大音量でこの曲を聴くシーン。
うぅ、涙なしでは語れないね。
まぁそれはいいとして、『中央アジアの草原にて』である。
東洋的なメロディにはシルクロードを旅する商隊を、ゆるやかに響き渡るホルンの音色には草原からはるか遠くにのぞむウラル山脈を思わせる。
たいへんよろしかったです。
ホールを出て、次までの空き時間はまた無料エリア。
学生オーケストラによる、ストラヴィンスキー『春の祭典』でつないで、いよいよメインイベント。
21:30~
フアンホ・メナ指揮、ビルバオ交響楽団演奏、
ラヴェル 『亡き王女のためのパヴァーヌ』
『ダフニスとクロエ』第2組曲
『ボレロ』
この指揮者も楽団もまったく知らなかったのだが、かんじんの『ボレロ』を聴くに及んで、
「この曲を演奏するのに、彼らは世界でもっともふさわしいのではないのか」
とすら思った。
バスク人とスイス人の間に生まれたというラヴェルの曲を、“スペインの”というより“バスクの”という方がふさわしいビルバオ交響楽団は常日頃からより多く演奏していると思われるが(いや詳しくはしらないけども)、そういう楽団の演奏技術よりも、圧巻は「まさにスペイン人」ともいえる、フアンホ・メナの情熱的な指揮だった。
『ボレロ』は、本来は舞踏曲である。
しかし、今回の公演にダンサーは必要なかった。
ファンホ・メナがまさに踊るように指揮をしていた。
ときには軽やかに、ときには自らが打楽器の役割をするかのように重々しくステップを踏みながら狭い指揮台の中を動き回り、曲も中盤を過ぎると各フレーズのメインパートにむかって挑みかかるように、指揮台から飛び出さんばかりに身を乗り出し、煽りはじめる。演奏も見事にのせられ、さらにそれを観て、聴いている観客の興奮も高まってくる。
曲は徐々に、それでいてメリハリのあるクレシェンドをきかせながら終盤をむかえ、いよいよクライマックス。
指揮者は踊り狂うようにタクトを振る。
「さぁ弾け! もっと強く!! もっと強く!!!」
弦も切れんばかりに力強く迫りくる弦楽器。骨まで響くドラの轟音。
興奮からか、大音響が直接そうさせるのか、身体が震える。
そしてこの曲にまつわる思い出などすっかり消し飛び、興奮が最高潮に達したところで、幕。
ファンホ・メナとビルバオ交響楽団の、一般的な評価というものをわたしは知らない。
実際に聴いてみても、演奏の、ましてや指揮の細かい巧拙なんぞ、ド素人のわたしにはわかるべくもないし、それについて評価することなど恐れ多くてできない。
しかし、こと『ボレロ』のような曲にとっては、そんなことどうでもいいのだ(もちろん、プロの音楽家にとっては技術があることがすべての前提であるはずだが)。
要は技術よりも勢いなのだ。
人間、その気になれば、ひとを感動させることができると。
5000人を超える観客から起こる、お世辞とは思えない鳴り止まぬ拍手がそれを証明していた。
家路につきながら、友人の第一声、
「これで2000円は安かったな」
まったくだ。
いやしかし音楽はライブが一番だね。それもクラシックだとなおさら。
当たり前のことなのに、録音物を聴く日常にすっかり慣れ、つい忘れてしまう、
“音楽は耳だけで聴くのではなく、五感すべてを使って、身体全体を使って聴くものである”
ということを再認識できた、たいへん有意義な今年のこどもの日であった。