書評じゃなくて感想文 [感想文]
だけで、終わらせたいところなのだが。
最近ずっとこれを取り扱いつづけてきて、これで終わらせるわけにはいかないのだが、ただ、ことこの本に関しては、“書評”というやつが、禁じ手とまではいかないが、まぁ非常にしずらいことになっているわけだ。読めばわかるが。
もともと、このブログで書籍を扱う場合、“書評”などと呼べるようなえらそーな書き方はせず、紹介文、感想文程度のものを書いてきたつもりだ。
よって以下、また同じように感想文らしきものを書きます。ほんとにどうってことない内容ではあるが、ごくごく些細なことでも、ネタばれにつながってしまったり、作品のおもしろさを損なってしまうおそれもあるので、嫌なひとはどうぞ読み飛ばしてください。
で、『邪魅の雫』は、
ラブストーリーだった。
まぁ読み方によっては、シリーズ全部がラブストーリーともいえるわけだが。『姑獲鳥の夏』は関口のラブストーリーといえるし、『魍魎の匣』も木場のラブストーリーである。
しかし、本作は、それこそがすべてのようだった。
先に読了していた職場の後輩曰く、
「“世界の中心で愛をさけぶ”でした」
そう。まさにそうだった。冒頭の数ページを読めば誰もが薄々でもそう感じるはずだが、読了してもその印象はかわらない。
いや、むしろ“世界の中心で愛をさけぶ”というより、奇しくもこのブログタイトルどおり、
“世界の中心で愛をさけんでいたつもりが、じつは世界の片隅で愛にはぐれていた”
というべきか。
あるいは、
“自分だけの世界の中心で愛をさけぶ”
とでもいうべきか。
とにかくラブストーリーなのである。
シリーズ各作品、すべて色が違い、それぞれ印象は異なるのだが、本作は特に異色作だと思う。
まぁあまりいないだろうが、もし本作から京極堂シリーズに手を出すという人がいるなら、シリーズが全部こういう雰囲気なのではないですよと、いっておきたい。
いや、でも、やっぱり、なんだかんだでおもしろかったんだな。京極堂の薀蓄が少なくてちょいと寂しくもあるが、それが“ラブストーリー”を際立たせているようで新鮮だった。最後、少し泣いちゃったりもした。まさか京極堂シリーズで泣けるとは思わなかった。最近じゃ、ただ京極堂の薀蓄を読みたいだけで新刊を待ってたような気もするが、なけりゃないで、けっこういける。ただ知識をひけらかすだけでない、京極先生のひとつひとつのことばの使い方の妙をあらためて思い知った次第だ。
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