○○は二十歳になってから [きょうの敬遠]
オトナになるってどういうことなのだろうか。ただ歳を重ねるだけでは「大人」になれても「オトナ」になれないというのは、この社会に短いながらも生きてきて、なんとなくわかってきた。童貞を捨てればオトナなのかといえば、これもたぶん違うだろし、カミソリ負けしない肌をもつことがオトナのしるしでは無論ない。
小便をもらしているうちはまだまだコドモなのか。
今朝、わたしはものごころがついてから初めて小便をもらした。幸いなことに場所は自宅で、同居する家族も全員出払っていた。
寝小便ではない。なにかに驚いたり、恐れおののいてもらすといった失禁でもない。流し台で(うちに洗面台というシャレたものはない)ヒゲを剃っている途中のできごとで、完全に覚醒した状態でガマンできずにもらしてしまったのだ。いや、もれたという表現は的確ではないか。もれはじめたが最後、すべてを放棄して出し切ってしまったのだから。
すべてをあきらめ、ただこの時間が(小便が)ながれるままに、宇宙の動きのままに、わたしという存在のすべてをその宇宙に委ね、自分が宇宙の一部になり、同時に宇宙が自分の一部になっていくこの感覚。簡単にいえば世間のしがらみ、執着から解放された、いわゆる「悟り」というやつに一歩あしを踏み入れた瞬間であった。小便をもらす人間はオトナでないならば、わたしはオトナでなくてもいい。わたしはオトナという枠を越え、その一歩先、いや、そもそも「オトナ」「コドモ」という枠すらあてはまらない境地を垣間見ることができたのだから・・・。
というのは、自分への言い訳である。こうやって公表して他人に笑ってもらわないと、自分の中で、この出来事の収集をつけられない。
で、実際はというと、ことの直後は「さてどうしたものか」とかなり冷静でいて、「悟り」などと大袈裟な心境にはいたらないまでも、上記とは逆に「これでおれもオトナになった」とすら思った。一皮むけた感じがしたのである。
「コドモのころできなかったことができるようになったらオトナ」、と単純に定義してみよう。今朝、自分が何を考えていたのか振り返ってみると、もらす寸前に、家にだれもいないという状況から隠蔽工作の可能性を見出し、その方法と段取りを組み立てていたのではないかと思われる。そのうえでことに及んだのだとしたら、これはコドモの判断力でできる行状ではない。すなわちオトナだからこそおもらしをすることができたということになる。そしてわたしはこれまでおもらししたことがなかった。ということで、この時わたしは立派なオトナになったといえるのである!
というのも言い訳だなこりゃ・・・。
わはは。前にテレビでさま〜ずの大竹が、大人なのにう●こをもらしたことがあると言ってましたよ。普通に朝起きたら。
しかし、Mですね…。プレイですよ、それ。
by A (2005-02-11 02:24)
まだそこに喜びをおぼえるまでには至ってないからねぇ。こうやって公表している時点ですでにプレイになってるのかもしれないが。
しかし実際のところ、大までもらせなかった自分の器の小ささにちょいとがっかりしてたのよ。
by homerun (2005-02-11 02:55)