誕生日 [きょうの敬遠]
人間の記憶回路というやつはじつによくできているようで。
日常おこる、瑣末な“イヤなこと”はうじうじとおぼえているものだが、精神活動に多大な悪影響を及ぼしかねない程の“ほんとうにイヤなこと”は思い出さないようになっているらしい。
ここのところ、なにか重大なことを忘れているような気がしていた。しかしそんな簡単に忘れるくらいなら大したことではないのだろうと放置。
そして“なにかを忘れている”ことすら忘れていた数日前。職場の同僚が、
「○○さん、きょう誕生日ですよね」
――はい?
寒い寒い、とある冬の某日。わたしは誕生日をむかえていた。
日常生活に支障をきたすため、自分の生年月日ぐらいはさすがにおぼえている。しかしその記憶が現実生活の時間感覚に投影されない。
生年月日をきかれたら、「昭和○○年・××月△△日」と答えられるが、いざ××月△△日をむかえても、それが自分の誕生日であるという認識を、脳はしてくれないのだ。
生きてたって、いいことなんかありゃしない。それでも業の深いわたしは、どうしても長生きがしたい。年をとりたくない。
肉体の衰えは階段をおりるように点で進行するのではなく、連続した下降線を描きながら死にむかっていくわけで、誕生日をむかえたからといって特別どうということはない。それはわかっているつもりだ。しかし、社会制度においての便宜上とはいえ、誕生日をむかえて公的に年齢が1つ増すというのは、死に一歩、確実に進んだということをなによりも象徴し、肉体的にではなく、精神的に“衰えた”実感を突き刺してくる。
そして年齢を意識することでなによりつらいのは、一般的な同年代の社会的立場と、自分の置かれているそれとを、否がおうにも比較することになり、現実を直視せざるをえなくなることである。
わたしのような人間(えー、俗にいうニートってやつですよ)に対する説教の常套句は「いい年してなにやってんだ」であるが、この「いい年」の意味が、年をかさねるごとに重くなっていく。「おれはこのままでいいのか」と焦燥感が募ってしまう。
わたしにとって年齢に関することは、“ほんとうにイヤなこと”なのだ。「誕生日おめでとう」って、めでたいことなんかひとつもない(とりあえず自分にとっての誕生日とは、『“産んでくれてありがとう”と親に感謝する日』ということにしている。当日、“誕生日”という認識がないのだから、どうしようもないが)。
そんなこんなで、いつのころからか自分の年齢を数えなくなった。いまや自分が何歳なのかわからなくなっている。年齢をきかれても、わからないので生年月日をこたえている。それで何歳なのかが判明しても、直後には思い出せなくなっている。
記憶していないわけではないのだろう。ただ自分の実年齢を思い出すのがほんとうに“イヤなこと”のため、「思い出すと、こいつ立ち直れないくらい落ち込む」と脳が判断して、記憶が意識下にフィードバックされないのである。たぶん。
更に。
なぜ職場の同僚(♂)がわたしの誕生日を知っていたのかという謎も含め、「これはブログのネタになる」と思ったのも束の間、↓では違うネタを扱っている始末(それでこの出来事は「数日前」なのである)。わたしの脳は、わたしの年齢に関連するすべてのことを意識させないようにしてくれているらしい。
ちなみに。
なぜ、このネタを思い出せたのだろう。
脳が「いつまでも逃避するな。いいかげん現実と向き合え」と、記憶の引出しを開けてくれたのだろうか。
せめて、「しっとるけのけ」の時はマネをしてもらいたい。謎
by SPY (2005-12-08 11:02)
おめでとうございますー。
by A (2005-12-09 00:59)
いざ「しっとるけのけ」になっても、たぶん自分では気付かない。
そして、めでたくない!
by homerun (2005-12-09 03:08)